分けてはダメ! インクルーシブ教育を曲解するな! 2024年5月会報より

埼玉県・運営委員 関 啓子

2月に衆参両院議員に対して「障害児学校のよりよい設置基準を求め、豊かな障害児教育の実現をめざす会」会長名で「設置基準をいかし特別支援学校の教室不足解消を求める請願署名」へのご協力についてというビラで、請願の紹介議員になってくださいという働きかけが行われているという情報が入りました。

要するに「特別支援学校の増設をもとめ、そのために国庫補助率を3分の2へ引き上げて」「地域にねざした小規模な特別支援学校の建設が必要です」というものです。

障害者権利条約で明確に日本の特別支援教育は否定されたのに、いまだに分ける教育を推し進めようとしている団体が国会議員に働きかけている、文科省の手先かと思ってしまいました。特に、資料として添付された「インクルーシブ教育とは」と「インクルーシブ教育についての保護者の声」は理解不足、間違いだらけで、これが流布されてしまっては、ますますインクルーシブ教育実現への道が後退してしまうと感じました。障害者権利条約を読んでいるの? 日本政府に出された改善を求める勧告を知らないの? DPIなどの障害当事者の声を聞いたことはないの? と思いました。

具体的に何が間違っているかというと、資料では「インクルーシブ教育とはすべての子どもを対象とし、障害がある子、病気の子、不登校状態の子、性的マイノリティの子、日本語を母国語としない子、貧困家庭にいる子、虐待を受けている子、ヤングケアラーなど多様なニーズをもった子どもたちの発達を保障するためにすべての学びの場で行われる教育です」とありますが、インクルーシブ教育とは「発達」ではなく人権を保障するために、「すべての学びの場」ではなく分けられることなく合理的配慮を受けて通常学級で行われる教育です。すべての子どもたちの人権が尊重され守られて、分け隔てられることなく、ともに育ち学び生活していく学校や保育園・幼稚園での教育です。障害によって必要と考えられる教育を排除否定するものではありませんが、そのために場を分けて教育しなければならないとするのは、障害を理由とする差別になります。

また、「『サラマンカ宣言』(ユネスコ1994年)(特別ニーズ教育における原則、政策、実践に関するサラマンカ声明と大綱)」「サラマンカ宣言では教育は障害児を含む『すべての』子どもたちの基本的権利であるとし、教育制度をすべての児童・生徒の多様性を考慮したインクルーシブなものとして策定することを求めています。またインクルーシブ教育は、特別なニーズのある子を差別・排除せず、インクルーシブな社会を築き、万人のための教育を実現する最も効果的な手段であるとしています」と資料にあります。特別ニーズ教育という言葉をだして、特別支援教育と同義語のように勘違いさせようとしているのでしょうか?

この資料で紹介されていませんが、サラマンカ宣言にある〈自らの教育システムを改善して、個々の違いや抱える困難さとは関係なく、すべての子どもをその中に組み入れることができるような政策や財政に高い優先的順位を与えること〉〈普通学校にすべての子どもを在籍させるインクルーシブな教育の原則を採用すること〉がポイントなのです。この宣言が出された後、イタリアでは「養護学校」を原則廃止したと聞きます。

資料ではそのあとに「現在の通常学級では、障害のある子のニーズに応じた学習を保障するのは大変困難であるという学校現場の声があります。通常学級の教育改革が求められます」「すべての学びの場が大事。どの子も発達するインクルーシブ教育の実践を!」と続きます。今の通常級では無理、支援級・支援校が必要と言っているのです。この言葉良く聞きますよね。就学相談などで学校側や教育委員会側が保護者を不安にさせ脅す文句です。無理でない通常級にするのがインクルーシブ教育なのです。

そして、きわめつきは「『インクルーシブ教育』が実現したら…」の見出しのまとめが「そのような教育が通常学級において実現しても障害に応じた学びを保障する特別支援学級や特別支援学校は必要と考えます」「交流と共同学習は大事」と締めくくられているのです。何もわかっていない! いや、あくまでも別学体制を維持させ、発達保障至上主義を堅持しようとする確信犯ではありませんか!

インクルーシブ教育の根幹は、分けてはいけない、ともにいることは 人としての権利だということです。障害者権利条約と障害者権利委員会からの勧告をよく読んでください。そして「豊かな障害児教育の実現をめざす会」というなら、障害を持つ人々の側に立って考え、障害児・者の人権を守り、誰もが分け隔てられることなく育ち学び生活できる世の中をめざしてください!

「インクルーシブ教育についての保護者の声」にもインクルーシブ教育がどういう教育を意味しているのか分かっていないままの「声」が載っています。

例えば「同じ場所に障害がある子と健常の子が一緒にいるというだけでは、インクルーシブ教育だと思っていません」私たちもそう思っていません。一緒にいることだけでインクルーシブ教育だと言っていると印象付けたいのでしょうか。

別の声として「教室に一人の個別対応の状態で、適切な教育が受けられるでしょうか。障害がある子が集団で学習できる場は『インクルーシブ教育』になっても必要だと思います」これは支援員がついての学習を指しているのかと思いますが、どういう支援が必要か、合理的配慮をどうするかは、まず通常学級にいることが前提になって検討されることであって、支援員がつくだけがインクルーシブ教育の方法ではありません。

インクルーシブ教育を進めているカナダ在住の知人のお子さんに聞いたところ、スペシャルニーズの子はいるけれどあまり意識していない。先生が増えたりとかスペシャルクラスなどはないけれど、スペシャルルームのような行きたいときに行ける場所はあるみたいだと言っていました。大事なのはまず一緒が当たり前ということです。

さらに「生活の場面を『共に過ごす』でもいいと思います。息子が『なぜ一緒に学ばないとならないの? 全然学習内容も進路も違うのに』といいます。25人学級も実現できていない状況で、インクルーシブ教育を進めることは困難と思います。…卒業後の社会がインクルーシブでないので、卒業後の社会をインクルーシブにしてほしいと思います」の声。

学校生活はまさに生活の場であって学習はその一部です。障害があるからといって学習内容や進路が全然違うこと自体がおかしいのです。障害があることで進学や就労が難しい今の状況をおかしいとは思わないのでしょうか? インクルーシブな社会にするためにも、まず学校がインクルーシブな場であり、インクルーシブ教育を進めていかなければならないのです。

今の学校教育の在り方を柔軟にし、通常学級の改革をすべきなのは当然ですが、教育条件が整わないからインクルーシブ教育・みんな一緒にいて学ぶことができないのではありません。45人学級でも支援員などいない時代にも、多くの障害を持った子が通常学級にいて育ちあってきました。すべての子どもは、ただひとりの子どもとして、人としているのです。

ともにいることを否定してはいけないのです。分けてはいけないのです。それが大前提です。そのうえでやれることを工夫していけばいいのです。全国連の会報や集会で紹介されたともに育ちともに学んできた報告は40年以上途切れることはありません。ともに育ち学ぶ分けない教育は、机上の教育論ではなく現実に実践され続けているのです。インクルーシブ教育と言いきれない課題が多いのも現実ですが、だからこそ全国の知恵と力を集めてインクルーシブ教育実現に向け進んでいきましょう。