能登を忘れない ―ささやかでも息の長い歩みを―(会報2025年2月号より)
石川県・運営委員 徳田 茂
あの元日の大地震から一年余り、九月の豪雨から四か月が経ちました。能登の復旧の見通しはほとんど立っておらず、人々の生活が落ち着くのはまだまだ先のことと言わざるを得ません。
幹線道路である「のと里山海道」は七尾市よりも奥に行くとクネクネと迂回路が続き、高低差も大きく、元の道とは全くの別物です。とりあえず車が通れるようにした、という感じです。これが金沢市の近くだったら、きっと県民が黙っていないでしょう。県や市や国も、今のようにのんびり構えていることはないでしょう。能登は軽く見られている。そんな気がしてなりません。
大地震と豪雨という二重災害により、奥能登(珠洲市・輪島市・能登町等)の人たちは極めて深刻な状況に置かれています。崖崩れにより集落の家々が壊され、橋が流され、道路が寸断されました。地震の後なんとか田んぼを補修して苗を植え育ててきた稲が、収穫直前の豪雨で泥水につかってしまったという人もいます。心が折れないほうが不思議だ、と言いたくなるような惨状です。
多くの人たちが金沢などへ避難したこともあり、能登の人口減少が加速しています。能登の復興の青写真を描くのは並大抵なことではないように思われます。
自分たちの仕事や生活のことを考え、私たち「ゆめ風ネット加賀」では、活動の範囲を「能登の障害者の生活の応援」にしぼっています。それも、障害者支援事業所の人たちとのつき合いを中心にしていて、個々人の生活にまで幅を広げることがなかなかできません。個々人の人たちとのつき合いを続けるだけの余裕がなく、そこがなんとももどかしいところです。でもそこは割り切って、能登の障害者個人の生活支援は能登に住む人たちや能登に拠点を置く支援団体のみなさんにお願いすることにしています。
さて能登の障害者支援事業所ですが、事業所によって復旧・復興の進み具合にかなり差があります。能登でも南の方(能登の入口)の事業所では施設・設備の改修も進み、多くの所が地震前の状態にかなり近くなっています。しかし北の方(奥能登)では九月の豪雨で床上浸水の被害にあった事業所もあり、そこでは床をはがして、土間にブルーシートを敷いて作業をしています。またある事業所では地震の際に職員の半数近くが退職したため、一時活動が全くできなくなりました。今も人手不足は解消されておらず、地震前の活動に戻るのはもっと先のことになるようです。
また能登の入口に当たる七尾市の事業所では、事業所自体は復旧し生産活動ができるようになったものの、商品の販売先が被災したため、生産活動がストップしています。そこの主力商品は納豆で、近くの和倉温泉の多くの旅館に出していたのですが、和倉温泉の旅館が地震で全て営業停止に追い込まれてしまい、今も大半が営業を停止しています。
生産品の販路を失った事業所は他にもいくつもあり、そこへの応援として私たちは商品を買い取って販売する活動を続けています。この取り組みも含め、私たちは「能登を忘れない」をスローガンに掲げて、ささやかでも息の長い活動を続けていこうと考えています。
その活動の一環として、能登の障害者支援事業所の人たちが大地震後の日々をどう生きてきたかを伝えるために、『大地震後、私たちはこう生きてきた――能登の障害者支援事業所の現場から』を発行しました。能登の人たちの過酷な経験を伝えるには決して十分とは言えませんが、それでも現地の人たちの生の声を知ることのできる冊子だと思います。ぜひみなさんに手に取っていただきたい。
この冊子の作製と並行して私たちは、《「のとからの風」展》を開いてきました。各事業所の被災状況を伝える写真パネル約百枚の展示に加え、事業所の人たちの声を聴く会と商品販売を行なってきました。小さな規模のものですが、中身の濃いものになったと思っています。
大事なことは、能登の人たちとつながり続け、能登を忘れず、共に生きること。これが私たちの活動のベースです。何が怖いか何が辛いかと考えた時、忘れ去られることほど、怖くて辛いことはありませんから。
まだまだ多くの困難をかかえながらも、能登の人たちは明るく、私はその声や表情に元気づけられています。この人たちに出会えてよかった。そんな思いを抱きながらの日々です。
みなさんもぜひ、能登へ来てください。必要ならご一緒します。
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