二つの判決から考える ―京都地裁ALS女性嘱託殺人事件判決と最高裁旧優生保護法損害賠償訴訟判決― (会報2025年2月号より)

    

神奈川県・運営委員 千田好夫

 2024年には、障害者の人生を左右しかねない判決が二つも出ている。一つは3月5日の京都地裁によるALS(筋萎縮性側索硬化症)の女性嘱託殺人事件に対する判決。もう一つは7月3日の最高裁による旧優生保護法損害賠償訴訟の判決だ。ここでは、この二つの判決の中身とこれらを受けてどうすべきなのかを考えてみたい。
 まず最高裁判決から検討する。

1.画期的な最高裁判決
 1948年に成立した旧優生保護法は、障害者及び障害者と見なされた人を「不良な子孫」として、障害者が妊娠・出産・子育てすることを否定した。それによって、だましてでも強制的に優生手術が行われ、1996年に優生条項が廃止されて母体保護法に変わるまでに、2万5千名もの被害者が出た。

① 旧優生保護法は、憲法13条・14条に違反する
 この判決は、まず旧優生保護法を憲法13条(個人の尊厳・幸福追求権)、14条(法の下の平等)に違反し、立法時に遡って違憲とするものだ。これで、原告が全面的に勝訴し、国に賠償を命じた。原告の勝利は、優生思想による障害者差別と闘っているすべての人々の勝利でもある。

②除斥期間の主張は、著しく正義、公平の理念に反する権利の乱用である
 国は不法行為から20年が過ぎると賠償を求める権利がなくなるという「除斥期間」を主張していたが、最高裁判決は、国のこの主張は「著しく正義・公平の理念に反し、到底容認することができない。信義則に反し権利の濫用として許されない」と断定した。

③同意があっても同意を求めること自体が憲法13条に違反する
 旧優生保護法には本人の同意を得た上で手術を実施するパターンもあるが、判決では、同意が自由意思に基づくとの担保はなく、そもそも同意を求めること自体が、個人の尊厳に反し、障害のある人と障害のない人とを合理的根拠もなく区別する差別的取り扱いであるとした。この判決により、旧優生保護法のもとで優生手術を強制された人たちすべての救済に全面的に道が開かれたと評価できる。

 そして忘れてならないのは、やっとのことで勇気を持って訴え出た全国の39名の原告のうち、まことに残念ながらこの判決前に6名の方が亡くなっていることだ。
他方で、この判決にもかかわらず優生保護法を生み出したこの社会のあり方は揺らいではいない。廃止されるまでの48年間に、この法律が執行され続けることで、人々の強固な優生思想をより深く染みこませてしまった。直接の優生手術による被害もさることながら、このことの害悪は計り知れない。
 津久井やまゆり園事件で46名を死傷させた実行犯は障害者を人間として認めず「生きている価値がない」と主張し、これに同調するネット上の書き込みは少なくない。入所施設での障害者や高齢者に対する虐待事件報道は絶えることがなく、多くの虐待が隠されていることが容易に想像される。またビジネス化されている新型出生前診断によって何らかの異常が認められた場合、90%以上の胎児が中絶されている。私たちは、この状況をどう考えるべきなのだろうか。

2.警戒すべき京都地裁ALS嘱託殺人事件判決

事件の経過
 次に、時間の順序は逆にはなるが2024年3月5日の京都地裁によるALS嘱託殺人事件に対する判決を検討したい。こちらはあまり知られていないので、まず事件の経過から見ていきたい。
 判決当日の夕方のテレビニュースでは次のように報じていた。「ALSの女性に対する嘱託殺人罪や別の殺人罪などに問われた医師、大久保被告に対し、今日、京都地裁の裁判員裁判で裁判長は安楽死を認めず、懲役18年を言い渡した」(傍線、筆者)というのだ。(この量刑には他の二つの事件が含まれている。現在、控訴中※)(※弁護側の控訴は棄却されたので上告中)
 活発で才気あふれる女性として建築関係で活躍していたという女性は、2011年のある日突然ALSを患っていることが発覚した。親に負担をかけまいと郷里の京都でワンルームマンションを借りて一人暮らしを始め、生活保護をとり重度訪問介護を利用して24時間介護を受けていた。
徐々に動きを封じるように病状が進行し、やがて死に至る難病。そればかりか他者と気持ちを通じ合える回路を一切失う恐怖にもさらされることになった。その恐怖となおかつ生きようとする気持ちが複雑に交錯していたと思われる。
 彼女のブログのサブタイトルには「死を待つだけ、苦しみだけの毎日から解放されるべく、人権を求める戦い」とある。つまり死によってその苦しみを逃れようとし、安楽死つまり人の手によって殺されることを「権利」であると主張していた。
 SNSで彼女と連絡しあい嘱託殺人を130万円で請け負った医師の大久保被告は、単に苦痛を取り除くためだけに引き受けた訳ではなかった。『扱いに困った高齢者を「枯らす」技術』などの電子書籍を出すほどの障害者や高齢者に対するヘイト思想の持ち主だったのだ。2019年11月30日、すぐに露見してはまずいので、彼女が明朝絶命するように処置したが、彼女はすぐに亡くなってしまい、ヘルパーさんが異変に気づき事は当日に露見した。警察の捜査が進み被告の過去の殺人事件等が暴かれ、彼の高齢者や障害者に対するヘイト思想が明らかになった。

警戒すべき判決
 しかし、3月5日の京都地裁判決には警戒しなくてはならない。被告側の主張に釘を刺す形で嘱託殺人が(つまり安楽死が)許される場合の「四条件」をあげているからだ。それは「①治療や検査を尽くし、他の医師の意見も聞いて慎重に判断②患者に可能な限り説明し、家族らの意見も参考に患者の意思を確認③苦痛の少ない方法を用いる④事後に検証できるよう一連の過程を記録化する――などが最低限必要」というものだ。これらの条件が満たされても安楽死が認められないならば、「結果的に患者に耐えがたい苦痛や絶望を強いる」ことになると裁判長は述べている。
 これでは被告のような「思想」を持つ医者が複数いて、家族や社会が本人を見放すなどの要因がそろった場合には、患者本人の意思にかかわらず殺されてしまう恐れがある。もし、優生思想の優勢な日本で安楽死が合法化されれば、最期の苦痛を救済するはずの「安楽死」が、「生きるに値する命」と「生きるに値しない命」の線引きに使われるようになってしまうだろう。安楽死を認めないどころではなく、いわば推進する判決なのだ。(安楽死が合法化されている国々ではこれらの傾向が顕著であるという。参考、児玉真美著『安楽死が合法の国で起こっていること』ちくま新書2023・11)

「耐えがたい苦痛や絶望」をもたらすもの
「耐えがたい苦痛や絶望」とはいえ、その苦しみは本人だけのものではない。ご家族や支援者、同じような難病や障害を持つ当事者、ヘルパー、医療関係者、そしてたまたまニュースで事件を知って心動かされた人々が感じた悲しみや怒りは、彼女から距離が遠いほどかすれていくものではない。逆にまたそれが彼女に伝われば「苦しい」だけのものではなくなるのではないか。彼女が亡くなってしまっているのが残念でならない。
 そればかりではない。その苦しみは本人を取り巻く外部環境、社会環境そして彼女を取り巻く医療・介護の状況からもたらされてくるのだ。
 被害女性のX(旧ツイッター)によると、24時間介護でたくさんのヘルパーが多くの事業所から来ている。その中には「虐待ヘルパー」だけではなく「ヘルパーくん」と表現されている「男性ヘルパー」もいることがわかる。「ある支援者は『(女性は)男性にトイレ介助をしてもらうのがつらいと話していた』と打ち明ける」。(京都新聞2020・8・16)
 この事件のみならず、異性介護の問題は多くの人が指摘しているが、社会問題化されていない。日本社会の不気味な闇だ。(参考。河本のぞみ「ALS嘱託殺人という出来事―なぜ異性介助が問題とならないのか」シノドス―オピニオン2020・11・26 https://synodos.jp/opinion/welfare/23912/

安楽死殺人事件という前に
 この事件や裁判のニュースを聞いた人は、ALSという急速に進行する障害に関心を奪われ、また安楽死が必要という誘導に引きこまれて、それでのみこの事件を考えがちだ。
 だが、被害女性のXを読み込んでいくと彼女自身はよく現状を分析していることがわかる。本当はひっそりと亡くなりたかったに違いない。だがそういう余裕はもうなくなっていた。
 「常に身体的苦痛・不快を抱え、手間のかかる面倒臭いもの扱いされ、『してあげてる』『してもらってる』から感謝しなさい。屈辱的で惨めな毎日がずっと続く。ひとときも耐えられない。安楽死させてください」(2019・9・17)。
 彼女が受けていた24時間介護というのは、「重度訪問介護」という障害者総合支援法に基づく制度で、重度の障害のある者が地域社会の中で暮らすための障害福祉サービスである。これは入所施設から脱出して地域社会で生きていこうと障害者たちが勝ち取った制度である。しかし、対象が比較的重度の障害者に限られており、単価(東京で約2000円)も安すぎるのが欠点で、これを運用できる事業所は限られ、従事できるヘルパーが集まらないのが現状だ。かろうじて献身的なヘルパーによって支えられている制度と言っても過言ではない。
 それで介護の質が低下して、男性ヘルパーや虐待ヘルパーによる「屈辱的で惨めな毎日」がもたらされているのだ。これを解決するには、「ぜひ介護職の過酷さと低賃金を訴えて改善を実現しヘルパーさんが増えるようにして欲しい(2019・8・1)」と彼女が提言しているとおり、とりあえず単価の大幅引き上げが緊急に必要だ。
 テレビニュースで見たように「安楽死を認めず」とこれが事件の核心のように報道されていることが問題だ。日本の福祉制度の貧しさ、とりわけ障害者が地域社会で生きていくことへの軽視が、安楽死を求めざるを得ない一つの大きな原因であることを最後に指摘しておきたい。この点で7月3日の最高裁判決が「本人に同意を求めるということ自体が、個人の尊厳と人格の尊重の精神に反し許されないのであって」と、同意があったとしても優生保護法による不妊手術を強制ではないと言うことはできないと指摘していることに鑑みれば、劣悪な福祉制度に置かれている難病患者や障害者が「苦しいから殺してくれ」ということをそのまま受けとることはできないはずだ。
 日本社会に優生思想が根強いことは確かだが、決して突破できないものではないと思う。障害のある者もない者もお互いに尊厳ある生として向き合う関係を作っていくこと、そしてそれを保障するものとして社会に個人の尊厳を保つケアの仕組みをつくっていくことにかかっているのである。時間はかかるけれど、それを基盤として政府の政策や人々の考え方を地道に変えていくことができるのではないだろうか。
そして、それを育むのがインクルーシブ教育である。最高裁判決を受けて「真摯」に反省し、内閣府が設置した「障害者に対する偏見や差別のない共生社会の実現に向けた対策推進本部」(本部長 石破茂首相)から、昨年末に「障害者に対する偏見や差別のない共生社会の実現に向けた行動計画」が出された。しかし、「障害のある人とない人が共に学び共に育つ教育を推進すること」と言いながら、その中身は交流及び共同学習、心のバリアフリーの指導と、従来の分離教育から何も変わっていない。現在の日本政府は最高裁判決を理解しようとはしていないことは明らかである。文部科学省と政府に、2022年に国連障害者権利委員会から日本政府に出された総括所見(勧告)に真摯に取り組み、全面的な法制度の点検と改善を求めるものである。

                                                          以上