私が就学時健診を無視できたワケ (会報2026年4月号より)

東京都 フリージャーナリスト  飯田和樹

 今年の春の入学式。真新しいランドセルをうれしそうに背負うわが子の姿を見て、万感の思いが込み上げた人も多いだろう。しかし、そんな晴れやかな「6歳の春」を迎えるまでに大変な苦労を強いられる人々がいる。障害のある子どもをもつ親たちだ。健常児の親には自動的に送られてくる地域の小学校への就学通知書をすんなりとはもらえず、地域の小学校の「通常学級」か「特別支援学級」か、それとも「特別支援学校」にスクールバスで通うのか「選択」を迫られる。希望が通るとも限らず、教育委員会や学校との交渉を要する場合もある。「まるで就職活動ならぬ『就学活動』だ」と話す親もいる。障害のある子どもの親が突きつけられる、もう一つの「小1の壁」――、「就学活動」を取材した。

 これはおよそ3年前、ヤフー特集で書いたルポ『障害児の親を悩ませる、もう一つの「小1の壁」――突きつけられる「就学活動」の現状』の前文である。記事の最後は「選択できる」ということと「選択しなければならない」ということの意味合いは大きく異なる、就学活動の存在は今の日本社会に数多く存在する障害者差別の一つにほかならない、と書いた(記事全文は「就学活動 小1の壁」で検索すれば読めます)。今も状況は何も変わっていないと認識している。ただ、我が家については、ルポの前文と異なる点がある。ダウン症のある息子がついに4月から地域の小学校の普通学級に通い始めるのだが、「大変な苦労を強いられる」ことも「教育委員会や学校との交渉を要する」こともなく、すんなりと就学通知書が送られてきたのだ。いったいなぜか。答えはみなさんお察しの通り、就学時健康診断(以下、就学時健診)を無視し続けたからである。就学時健診を受けていないので、就学相談を勧められる機会もなかった。

 それでは、就学時健診を無視することにまったくためらいがなかったのか、といえば実はそんなことはない。いや、もちろん、最初から普通学級以外の選択肢はなかったし、全国連のホームページの「お悩みQ&A」の内容も把握していたので、この方法で就学通知書を受け取れることはわかっていた。それでも当初は「こんな子が入るよ、よろしくね」くらいは言いに行っても「損はないかな」という気持ちが多少あった。しかし、この「損はないかな」という気持ちを突き詰めて考えた結果、私の場合は「やっぱり就学時健診は受けない」という結論にたどり着いた。

 どういうことか少し説明をしたい。日々、障害の問題を取材している私は、「障害の社会モデル」を知っており、学校に「合理的配慮」を提供する義務があることも知っている。つまり「損はないかな」というのは、捉え方によっては、事前に子どものことを話すことで、学校側からなんらかの合理的配慮の提供を受けようとしたともいえるだろう。
 しかし、よくよく考えてみると、そんなものは合理的配慮でも何でもないのではないか、と思うようになった。息子のように、医療的ケアの必要はない、移動に困難を抱えているわけでもない知的に障害がある子どもにとって、事前に準備できる合理的配慮なんてあるのだろうか。教員の友人が「友だちが最大の合理的配慮」と話していたが、その言葉のとおり、日々の友だちとの関わり合いの中で自然に行われるやりとりこそが合理的調整(ここはあえて「調整」としたい)だろう。あえて言えば、中途半端な知識と想像で私が合理的配慮を求めた結果、本来必要な合理的調整の機会を奪ってしまうことにつながったら、それこそマイナスではないか。そのように考えた結果、最終的に私は就学時健診を気持ちよく無視することができ、2月末の新1年生保護者会も涼しい顔で参加することができたのだ。

 とはいえ、不安がまったくないわけではない。新1年生保護者会の配布資料には「できてほしいこと」がずらりと書き連ねられ、これを説明する教員が「できると安心して学校生活を送ることができます。わかりますよね?」などといけしゃあしゃあと口にするのを聞くと、前途多難だなと思う。4月以降、息子が苦労することも少なからず生じるだろうと覚悟もしている。それでも、一緒にいないと関わり合いが生まれないし、関わり合いが生まれなければ合理的調整をする機会も生まれない。トラブルはとても面倒だけれども、合理的調整の絶好のチャンスだ。息子や息子の同級生になる子どもたちは、大人が邪魔さえしなければ、このチャンスを生かしていける力をもっているはずだ。だから、学校に提出するカードの「子どもの教育についての希望」の欄には次のように書いた。
 「子どもは子どもの中で育つ」「教員の役割は子どもと子どもをつなぐこと」――。親しい教員たちがよく口にする言葉ですが、そのような教育を望みます。子ども同士が対等な関係を築くことを重視さえしていただければ、「これだけはできるようにしてほしい」などという希望はありません――。
これから息子たちが経験する日々の学校生活の中でのささいな出来事の積み重ねこそが、ともに生きる社会への一歩になると信じている。