人権モデルとは何か (全国連会報2024年1月号)

東京都・世話人  大谷恭子

2022年の障害者権利委員会からの日本への第一回総括所見は日本政府に対してだけではなく、私たち運動現場の者たちに対しても手厳しい内容だった。多くの人に衝撃を与えた「特別(支援)教育をやめる目的を持つこと」「普通学校への『就学拒否禁止条項』を設けること」これだけでも私たちの予想を超えていたが、実は、最も大きな突き付けが、日本に残る「医療モデルを人権モデルに転換せよ」ということだった。初めて総括所見を読んだ時、インクルーシブ教育への厳しい突き付けには無条件に拍手喝采、溜飲を下げたが、正直これには戸惑った。未だ、社会モデルさえ根付いていないのに、それを越えて人権モデルとは! しかもこの指摘は、地域生活(19条)教育(24条)療育(26条)まさにインクルーシブ教育に密接にかかわる分野についてのものだった。人権モデルという言葉をはじめて聞いたのは、条約批准のための制度改革の際だった。しかし、権利条約は、文言上はあくまで「社会モデル」から障害を定義していたし、その底流に人権モデルがあると聞かされても何か遠い話のように感じていた。それが、今や人権モデルが各国への勧告の基本概念になっている。

ならばその人権モデルとは何か。

そもそも、障害とは何かの議論は何のためになされ、否定された医療モデルとは何か、社会モデルとは何かの理解から始めるしかない。障害者の完全社会参加がうたわれるようになったのは、1960年代以降だが、その頃は、障害とは、個人の身体にある何らかの機能的欠損として捉えられていた。耳が聞こえないことも目が見えないことも、歩けないことも、個人の身体の機能不全であると。この概念の延長線上には、何らかの機能不全を持つ個人が社会参加しようとしたら、個人の努力(これを医療や福祉によって支援することはあっても)によってこの障害を克服し、社会参加するしかない。しかしそれは限られた場面でしか成功しない。これに対し、障害とは、社会との関係で生じるものであり、社会が変化すれば障害が小さくなることも、全く意識することもなくなると認識されるようになり、これが障害の「社会モデル」と言われるものである。そして、ここから、社会的障壁を除去し変化させることを合理的配慮として社会に義務付け、これが提供されないことが差別であるとされた。

それでは、この社会的障壁の除去=合理的配慮の提供義務ですべての差別は解消しえるだろうか。

障害者権利条約は、他の人権条約にない新たな権利として「あるがままに尊重される権利」(17条)と「地域生活の権利」(19条)を規定している。また、特に法の下の平等として、「個人の意見の尊重」をうたっている(12条)。これらを十全に保障しようとする時、おおよそのことは合理的配慮の提供で保障することはできる。しかし、究極のところ、社会権給付として、例えば地域生活で1日24時間の介護保障(例えばパーソナルアシスタント保障)は社会権としての福祉的給付と即時的提供義務である合理的配慮の問題が生じ、合理的配慮には過度の負担概念がともなう。しかし生存が脅かされる問題なのであってこれを否定することはできない。また、必ずしも機能障害を伴わない、たとえばトランスジェンダーのアイデンティティ保障は合理的配慮の側面もあるが、より人々の内心にある偏見差別の問題である。いいかえれば、社会モデルとして社会が変化すれば「できる」ようになるという観点を一歩越えて、あるいはまったく異なった観点から、障害者の人権を差別なく平等に包括的に保障するために、障害とは人権侵害が生じている状態であると、広くとらえ直す必要が生じてきたのである。要は、機能障害を社会的障壁との関係でとらえこれを除去しようとする「社会モデル」に対し、「人権モデル」は、機能障害を人間の多様性の一部として、或いは機能障害の有無にかかわらずアイデンティティとして捉え、あるがままに地域社会が受け入れその尊厳を保障すべきであるとする、ということである。また、医療も療育も教育も、それぞれ社会権として、また排除分離されないという自由権としてもあるが、それらを融合しつつ、人間としてトータルの尊厳が尊重されなければならないという、大きく一歩踏み出した概念である。

人権モデルで障害をとらえようとすることは、社会全体の人権水準がまさに問われることになり、実はその曖昧さによって、全く抵抗感がないわけではない。しかし、私は、日本の障害者運動はこれをまさに求めて来たのではなかったかという思いを強く持っている。1960年代から関西を中心に広がった障害のある人もない人も共に当たり前に地域で生きる共生共学の運動は、あくまで障害者を一人の人間として地域社会で普通に暮らすこと、「当たり前に」存在することを求めてきた。印象深いのは、障害者権利条約が成文化され批准されようとしたときに、「当たり前に」地域生活を保障しようとしてきた人たちが、この合理的配慮という言葉に否定的だったことだ。特別なことをするのではない、そこにその人が当たり前に存在することが必要で、そのために自ずと必要なことをするのだと。私は、それこそが合理的配慮で、具体的に必要なことを言葉で表現することによって敷衍(ふえん)化する必要があるのだと、説得したものだった。今なら思う、日本の障害者運動は、この人権モデルを先取りしていたのではなかろうかと。

全国連 会報2024年1月号より